矢高諏訪神社について

矢高神社とは…
矢高諏訪神社とは…
矢高諏訪神社は、鎌倉時代初期の建保2年戌年(1571)に松尾城主 小笠原六波羅太郎によって創立されたが、天正10年(1582)2月、織田氏の兵火により焼失。その後文禄2年3月(1593)再興し、明治5年村社に列す。再興してから419年が経つ。
矢高の石段
矢高の石段

「絶景かな 絶景かな 長姫城址から真向かい」

長姫城の本丸から眺めると矢高の森は、真正面にみえ、空をとべたら歩いていけそうな手のとどきそうに近くに感じるところから、飯田藩の藩主達はこぞって武選長久を祈願しました。(飯田藩主 脇坂安元候寄進の鉄砲二十目筒がある)
天保初年(1830年代)石段が完成した際には、ときの藩主堀親寚は(ほりちかしげ)「長姫城から眺めて、たいそう立派にできたから
桜を植えよ…と金壱封を賜ったとか…」
現代の私どもがうかがっても喜ばしい、うれしいお話ですね。
石段の近くに住む山下さんも「この桜は殿様がくださったもおだと言われている」と語っておられます。

矢高の石段の三本桜
矢高の石段の三本桜
残雪の中央アルプスを望み、紺碧の空を背景に鼎の屋並を見守り、対岸の長姫城址に向かって雄々しく歴史を刻んでいます。
天保初年(1830年代)石段が完成した折り、殿 堀親寚(第10代藩主)の桜への熱き想いを知った村の衆は「ソレッ」とばかりにそこいらじゅうを探しかけまわり、どっしりと力強く伸びる幹、勢いよく張り出す迫力ある枝っぷり、天守閣からの眺めも姿も美しい横綱風格の銘桜は、そうして探し出され植えられたのではないかと推察されます。
時の飯田藩主堀親寚は、知恵と勇気の殿として、家来を励まし、民にやさしく、学問武術に秀で、江戸城内で老中核(今でいう大臣クラス)まで登りつめました。
親寚のもと飯田の一番栄えた時代と言われ、出世殿として知られています。
しかし、月日が経つにつれ、飯田の民の事も忘れがちになって側室の若山をちょう愛し、その暮らしぶりは目に余るものになっていきました。
一方、当時江戸屋敷に仕えていた山口不二は、若山の浪費とおごりの姿を見聞きする度に、堀家安泰のため、領民救済の為と鉄のごとき決心を固め、機をうかがい懐剣をしのばせ若山の背中へ一突き!
罪人となったお不二は、生まれふるさとの飯田に送り帰され、22歳の若さで処刑されました。のちに「烈女」「女性の鏡」と言われ「お不二様」として、女性に慕われ飯田市箕瀬の長源寺にあるお墓で今も眠っています。
この石段の桜を不二はきっとお城から眺めていることでしょう。

矢高諏訪神社周辺のさくらマップ

矢高神社周辺のさくらマップ 矢高神社石段エリア

 

品 種 花 色 花弁数 花 径 開花時期(見頃)
染井吉野 染井吉野

淡桃白色

5枚 3.5~4cm 4月初旬
江戸彼岸 江戸彼岸

白~紅色

5枚 2.5cm 4月初旬
紅山桜 紅山桜

紅色

5枚 4cm 4月中旬
彼岸桜 彼岸桜

淡紅色

5枚 2.8cm 4月初旬
普賢象(ふげんぞう) 普賢象(ふげんぞう)

淡桃白色

30枚 5cm 4月下旬
山桜 山桜

淡紅~紅色

5枚 4cm 4月中旬
かすみ桜 かすみ桜

4月初旬に見頃だった桜ですが、残念ながら枯れてしまいました…

関山(かんざん) 関山(かんざん)

濃紅色

40枚 5cm 4月下旬
彼岸しだれ 彼岸しだれ

白~紅色

5枚 3.5cm 4月初旬
寒桜(支那実桜)

寒桜(支那実桜)

淡桃白色

5枚   3月中旬

矢高諏訪神社境内エリア

矢高神社境内エリア

品種:江戸彼岸染井吉野

1~2

 

 

矢高中央公園南エリア

矢高中央公園南エリア

品種:紅山桜彼岸桜山桜普賢象関山寒桜

4~6

7~9

10~15
23~26

27~29

30
32~35

16~22

 

 

 

矢高中央公園北エリア

矢高中央公園北エリア

品種:江戸彼岸、染井吉野山桜彼岸しだれ

36~41

42

51
48

49

 

 

 

矢高諏訪神社石段周辺エリア

矢高神社石段周辺エリア

品種:江戸彼岸、山桜

56~57

58

【見どころコメント】

石段の脇にたたずむ大きな名桜「殿様三本桜」。幹回り4メートル弱推定樹齢350年余り。

植栽された当時、出世殿として知られている第12代堀親(ちか)しげ殿をめぐる女性たちの争いや、盛んに一揆が起こっていた経済状況など、思いをはせて桜の花を見ると愛おしくなります。

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